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The Daily Telegraph
Features
Monday, July 7, 2003



(HEAD)
ピート・タウンゼントの逮捕、ジョン・エントウィッスルの死を経験したザ・フーのロジャー・ダルトリーが、なぜ未だに権力に対して激しく憤っているのかを本紙マイケル・シェルデンに語った。

「俺たちは死ぬまで走り続ける」


(BODY)
ロジャー・ダルトリーが、「年をとる前に死にたい」と挑戦的に宣言するザ・フーの名曲「マイ・ジェネレーション」で初めてシャウトし、咆哮し、独特のどもりで有名になってからほぼ40年が経った。

バンド・メンバーのキース・ムーンはその言葉通り、25年前にドラッグ(アルコール中毒治療薬)の過剰摂取で死亡したが、ダルトリーは60歳間近になった今でもパワーに満ち溢れている。彼の声はほとんど変わっていないし、若者の怒りが今でもふつふつと煮えたぎっている。 その怒りは、事実、彼がソロ出演のリハーサルをしていたハリウッドボウルの楽屋裏で私が彼と会ったときにも、すさまじい勢いで爆発していた。青い瞳を見開き、怒ったように椅子の上で身体をゆすり、机を強く叩き、激しい感情のあまり上ずった声でしゃべった。「今や、殆どの人間は自分で考えるということをしないんだ。それじゃあ、壁紙と一緒じゃないか」


「みんなそろそろ目を覚まして、ピートの身に起こったことをよく考えたほうがいい。あの事件は終わったわけじゃない。あれは魔女狩りの始まりだったんだ。みんなに同じ災難が降りかかる可能性があるんだ」。彼が言っているのは、もちろん、2003年初めに、ザ・フーのリード・ギタリストでメインのソングライターであるピート・タウンゼントが、インターネットで児童ポルノ画像をダウンロードしたとして警察捜査を受けた事件のことだ。 所有するコンピューターが徹底的に調べられた結果、彼は注意勧告を受け、性犯罪者リストに五年間登録されることになった。

数ヶ月の間、ダルトリーは権力者たちによる旧友の扱い方に激怒していたが、彼らに正面から食ってかかることは控えてきた。今、この瞬間までは。このカリフォルニアの晴天の下、ダルトリーの怒りの引き金を引いたのは、たった今彼がリハーサルで歌ってきたタウンゼント自身の曲のようだった。私がハリウッドボウルに到着したとき、ダルトリーの声がラウドスピーカーから聞こえてきた。彼は、タウンゼントが創作した、虐待された少年についてのロック・オペラ「トミー」の中の名曲「See me, feel me, touch me, heal me」を歌い始めたところだった。ダルトリーの声はまるで怒りに満ちた天使のようだった。

「重要なのは、ピートが天才だということだ。世界中の人が、今まで聴いたことのないような素晴らしい音楽を彼から与えられてきた。この前の事件のせいだけで犯罪者のように扱われるべき男ではないんだ。俺は彼の曲を何年間も歌ってきて、それらを畏怖している。彼の曲は本当に素晴らしい。だから、彼の曲を愛する人はみんな立ち上がって、ピートに力を貸すべきなんだ」

「彼の人権はひどく蹂躙された。俺たちは戦うこともなく、黙って事の成り行きを見ているだけじゃだめなんだ。もし今が60年代だったら、もっと多くの人がこの魔女狩りの意味をよく考えて、抗議運動を始めていたことだろう。これはピートだけの問題じゃない。俺たち全員の人生がコントロールされ、警察にやりたい放題させるかどうかということなんだ」

ダルトリーによると、リッチモンドのタウンゼント邸から14台のコンピューターが押収され、「軍事的精密さ」をもって調査されたそうだ。数ヶ月に渡る調査の結果、犯罪を証明するような痕跡はコンピューターに一切残っていなかった。このことはダルトリーを激昂させた。俺たちをなんだと思っているんだ?ファッキン・タリバンか?ピートは芸術家で、少々世間知らずかもしれない。だが、彼は間違ったことはしていないし、最初から事実しか述べていない。それなのに、彼はまるで最悪の罪を犯したかのように扱われ、なんの説明のないままに裁判もなしに十字架に架けられたんだ。こんな不名誉なことがあるか?彼らがやったことはあまりにも酷すぎる」

ダルトリーは、彼の旧友が無防備にネット・サーフィンをしていて、たまたま違法な画像を含むサイトにアクセスしてしまっただけのことだと信じきっている。

「たまたま」たどり着いたサイトでタウンゼントは、ページにアクセスするためにクレジットカードを使用した。しかしそれは、児童虐待に関する長期的プロジェクトのリサーチのためだったという。

「それは100%真実だ」。ダルトリーは主張する。「もし彼が嘘八百を並べたてていたなら、捜査されることもなかっただろう。だが彼は何も隠し事をしなかった。正直者が馬鹿を見たんだ。彼は虐待された人々を救済する活動を長年続けているし、この問題についてずっと考え続けている。これは事実だ。それなのに、誰も彼の言うことを聞こうとしない。そして今―あまりに遅すぎるがー、世間は彼の罪が“何もしなかったこと”だったとようやく気がついたんだ」

楽屋のテーブルにもたれかかりながら、激しい情熱をもって彼は私に語りかけた。「分かってほしい、ピートはジョン・レノンと同じタイプなんだ。感情がすぐ表に現れたかと思うと、自分勝手に外界との境界線を引いてしまう。支配階級の連中はジョンのそんな態度を嫌っていた。今度はジョンの代わりにピートというわけだ」


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ダルトリーとタウンゼントは、彼らの人生の殆どを戦いに費やしてきた。権力者との、また、しばしばお互い同士の戦いに。彼らは音楽とバンドのことについて数え切れないほどの喧嘩を繰り返してきた。ロジャーはよく、サンドバッグ代わりにピートのやや大きい鼻に強烈なパンチを浴びせて、熱しやすい気性を爆発させてきた。彼らの持つお互いの印象はそれほど甘いものではない。しかし、外敵―特に、「マイ・ジェネレーション」のオープニングにあるように、「俺たちを止めようとするもの」―に対しては、常に一致団結して戦ってきた。

10代の頃の彼らは、戦後イギリスの物言わぬ従順な大衆に反発し、息の詰まるような古いモラルを押し付けてくる大人たちに食ってかかった。

「“年をとる前に死にたい”というのは、それまでの大人たちのようには死にたくない、いつまでも若く自由な心でいたい、という意味だったんだ。俺たちは、少しは社会を変えることができたと思っていた。ーだが、今はもう分からない。古臭い道徳がまた戻ってきたような気がする」

ダルトリーは、彼が嫌う全ての要素を体現したかのような教師のことを今でもはっきりと覚えている。14歳の頃、テレビで見たエルビスのパフォーマンスに熱狂した彼は、クラスメートに自分の天職はロックをやることだ、と語った。しかし、その教師にアメリカン・ロックについての意見を求めると、彼は見下した態度でこう言った。「エルビスは最低だ」

「そいつはアクトン・グラマー・スクールに通っていたときの教師だった。多分その時そいつは30歳そこそこだったと思う。だが彼の態度は年寄りのようだった。俺の知る限り、奴は既に死んでいた。俺は、奴と奴の肯定するものすべてを嫌った。ああいう人間は、一生書類かばんを持って過ごすように生徒を訓練するんだ。俺は自分に言い聞かせた。何が何でもエルビスのようになってやる。少なくとも彼は、自由だ」

翌年、15歳になったダルトリーは退学し、友人だったピート・タウンゼントとジョン・エントウィッスルと共に“Detours(回り道)”というバンドに参加した。

「俺たちは大衆から外れたような人間だった。いつも回りの人間とはちょっと違っていた。それがお互いに呼び寄せられた理由だと思う。それは自然の化学反応だった。そして、俺たちの音楽は素晴らしかった。俺は一度も過去を振り返らなかった」

グループがドラムのキース・ムーンを加えてザ・フーとなった後、気質の似た四人は常に古い世代を攻撃し続けた。演奏の最後は大音量のでたらめなノイズで締めくくられ、衝動的に機材を破壊する荒れ狂ったパフォーマンスは、ビートルズやローリング・ストーンズを、飼いならされた優等生のように思わせた。

その頃、観客がどんなに驚いたかを思い出して、ダルトリーは嬉しそうに笑った。「俺たちが何者か分かってなかったんだ。アメリカに行ったとき、興行主はよりによってハーマン・ハーミッツ楽団と同じステージをブッキングしたんだ。信じられるか?俺たちはステージに出て行って、いつもと同じようにやった。観客はあっけにとられてこう言った。「このノイズは一体どこから聞こえてくるんだ?」あれはベトナム戦争の頃で、俺たちが目前でギターを壊したり、物を投げたりして爆発していることに観客はショックを受けていた。ちょうど目の前で小さな戦争が起こったようなものだったんだろう」

しかし、この狂乱の日々は長くは続かなかった。70年代に入るとバンドは方向を見失い、ヒット・アルバムを次々と繰り出す日々は終わった。1978年にキース・ムーンがアルコールとドラッグの過剰摂取で命を落とした時、ダルトリーは、彼がいなくてザ・フーを続けられるかどうか分からなかったという。

「キースは最高のドラマーだった。着想が豊かで、二度同じフレーズを叩くなんてことは滅多になかった。だが、それ以上に俺が奴を気に入っていたのはー殆どの人は知らないだろうがー、奴はイギリスで最も面白い男の一人だったということだ。奴はよくモンティ・パイソンの連中とつるんでいたんだが、グラハム・チャップマンが俺に言ったことがある。“キースはモンティ・パイソンのどのメンバーより面白い”」。しかしザ・フーはそのドラマーがいなくてもなんとか生き延び、ここ20年余りの間にも、アルバム制作やコンサートを続けてきた。だが、今これから先はどうなるか分からない。タウンゼントの事件だけがその理由ではない。昨年、もう一人のメンバーが亡くなったのだ。

ジョン・エントウィッスルの訃報が届いたとき、ダルトリーは驚かなかったという。「ジョンはずっと調子が悪そうだった。俺は東洋医学と健康的生活を信奉しているから、誰かが病気に罹るとすぐ分かるんだ。ジョンの場合は彼の眼と顔色ですぐ分かった。彼は危険を承知で激しく生きていた。死ぬ前の数年間、俺は奴と会ったときは必ず、別れ際に力強く奴を抱き締めた。もう二度と会えないかも知れない、といつも思っていたからだ」

エントウィッスルがラスベガスのホテルの一室で、少なくとも一人以上のストリッパーの腕の中で死んだということに、ダルトリーは笑顔を見せた。60年代の反逆者にとって、これ以上相応しい死に方はないと評価しているのだ。

「世の中の男全員に聞いてみろよ。老いぼれてひとりぼっちで死んでいくのと、ラスベガスで大勢のストリッパーといちゃつきながら死ぬのと、どっちを選ぶかって」。彼は笑い、そして大声で言った。「おいおい、正直になれよ。どんな男にとっても最高の死に方だぜ」


                   
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驚くべきはキースとジョンが死んだ後も、ザ・フーのもっとも重要なーそしてもっとも激しやすいー二人が未だに活動を続けているということだ。ダルトリーは、二人がまもなく新しいアルバムのレコーディングを始め、もう一度ツアーを開始することになると確信をもって語った。

しかし、彼らはザ・フーとしてパフォーマンスするつもりなのだろうか?

「もちろんだ。いま止めるつもりはない。ピートがギターを演奏し、俺がリード・ボーカルを取る限り、ザ・フーは健在だ。俺たちのサウンドはまだそこに在る。俺の見るところ、ピートは年々よくなってきている。誰も俺たちを止められない。政府も、マスメディアも、誰であろうと。俺たちは死ぬまで演奏し続ける」

確かに、ダルトリーの場合は当分死ぬことはなさそうだ。メンバーの中では常に最も頑丈で健康的だったし、順調に人生を歩んできた。結婚し、四人の子供に恵まれ、どちらかというと普通の、地に足の着いた生活を楽しんできた。インターネット上の悪魔に魅入られる心配もない。コンピューターを一台も持っていないからだ。

この寛大な心を持った飾り気のない男は、年齢を重ねるに従って円熟味を増してきた。彼は今、ほとんどの時間を10代のガン患者を支援するためのチャリティ活動に費やしている。過去数年間、コンサートやCDの売上げ等から250万ポンド(約5億円)以上をこの活動に寄付してきた。

この活動は、10代のガン患者のために医療機器の購入を助成したり、患者同士がお互いにサポートしたりする手助けをする。

「ティーンエイジャーなしでは、音楽業界は成り立たない。俺はこの業界で成功してきたから、その一部を返したいんだ。このチャリティ活動は大きな社会のうねりを呼ぶと思う。10代のガン患者に対する社会の扱い方が変わるはずだ。彼らは、子供でもないし、大人でもない。中途半端な立場にいて、俺たちが注意を払わなければ、無視されてしまう存在なんだ」

もうひとつ、彼が円熟味を見せたことがある。既に亡くなってしまった、労働者階級に属していた両親に対して、ダルトリーは尊敬の気持ちを持ち始めた。椅子にゆったりともたれかかりながら、滅多にないソフトな態度で、彼は懐かしそうに父と母について、彼らの苦闘について語った。

「彼らは俺たちが戦っていたものに対して、なんの責任もなかった。支配階級の人間ではなかった。だが俺は、与えられた人生をそのまま受け入れている彼らを馬鹿にしていた。俺と同じように、戦って欲しかった。しかし、今は分かる。父も母も、戦争によって闘争心をすべて奪われてしまったんだ。父は、ノルマンディ上陸作戦開始の日に、ドーバー海峡で十分闘争心を燃やしたんだ。一生その一度だけで十分なくらいに。今なら俺にもそれが理解できる」

彼は少しためらい、まるで誰かに後悔を告白したいかのように私を見た。それから、両肩をすくめてこう言った。「両親に謝らなくてはいけないような気がしている」。どう返答したらいいか分からなくて、私はその理由を尋ねた。

「分からない。ただそうしたいんだ。だけど、親父が何ていうかは分かっている」

彼は眼を閉じて、笑った。

 「親父はきっとこういうんだ。“気にするな息子よ、お前はよくやった”」





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